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わかやまの文化財フォトコンテスト わかやまの文化財フォトコンテスト

木造大日如来坐像 もくぞうだいにちにょらいざぞう

ノーイメージ画像
員数 1躯
地域 伊都地域
所在地 橋本市谷奥深
時代 平安後期
指定年月日 令和4年2月16日指定
指定等区分 県指定
種類 彫刻
所有者 谷奥深区

解説

奈良県との県境にあたる橋本市谷奥深に所在する光明寺の本尊。智拳印を結ぶ通形の金剛界大日如来坐像である。
像高99.4㎝、針葉樹林(ヒノキか)製で、髻を含み頭体通して右耳後ろ、左耳半ばを通る線で前後二材矧ぎとする。内刳を施し、天冠台上面で地髪部を含む髻を、三道下で頭部を割り放す。両肩先、前膊から先、両手先を各別材とする。脚部に横一材を、両腰に三角材を矧ぎ寄せる。体幹部前面材に像心束を残す。表面は錆下地とし、像前面を中心に泥下地を施し、漆箔仕上げとする。光背は頭光・身光・光脚からなり、竪二材を中央で矧ぎ寄せる。台座は蓮肉、敷茄子各一材製とし、蓮弁の一部と敷茄子より下、心棒を亡失する。八方四段の鱗葺きで、蓮肉中央に上面から深さ14㎝の大きな内刳りが施される。現状は全体に著しく腐朽が進むものの、光背や台座も含め造像当初の姿をよく残している。
光明寺は「紀伊続風土記」によれば隅田八幡神社の別当寺である大高能寺の末寺であったというが、本像の伝来は未詳である。ただし、脇仏の二天立像の後補の邪鬼底面に「大深之大日寺二天/建徳二年二月十□/サイソクスヲ□敬白」との墨書があり、遅くとも建徳2年(1371)にはこれら三像が本寺にあったことがわかる。本像は、浅く整理された衣文や抑揚の少ない穏やかな肉身表現など、全体としては平安時代後期、12世紀後半に隆盛した定朝様を示す。しかし、太く高い髻や、背面腰部において裳の折り返し部分の裾を腰布で覆って表さない点、臀部全体の腰布の衣文を並行に重ねる点など、部分的に平安時代前期の表現を復古的に取り入れている。これらは、12世紀後半に奈良に拠点を置いて活躍した仏師集団であり、慶派の前身となった奈良仏師の作に見られる特徴とされる。さらに言えば、本像には、深い面奧や頭部に比して太い首、対耳輪など、復古的な要素が顕著に看取される。これらは神護寺五大虚空蔵菩薩像や広隆寺講堂阿弥陀如来坐像などの9世紀の諸像に見られる表現であり、本像は平安時代後期の定朝様を基本としながら、平安時代前期の古典学習に重きを置いた奈良仏師の作例と位置付けることができる。
以上のように、本作は、高野山麓に伝来する当初の台座と光背を伴う、12世紀半ば~後半にかけての奈良仏師の新出作例として貴重である。