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瀬戸家住宅 せとけじゅうたく

瀬戸家住宅1
員数 7棟
構成要素 主屋(しゅおく)、座敷、旧女中部屋(きゅうじょちゅうへや)及び風呂、文庫蔵(ぶんこぐら)、穀蔵(こくぐら)、西蔵(にしぐら)、表門(おもてもん)及び塀
地域 日高地域
所在地 御坊市藤田町藤井2215
時代 江戸末期・大正後期・昭和前期
指定年月日 平成30年11月2日登録
指定等区分 国登録
文化財分類 有形文化財(建造物)
所有者 個人

解説

日高川下流右岸の御坊市藤田町藤井に所在し、広い屋敷は日高川にほぼ接するように構えられている。瀬戸家は天正年間に当地に来住したと伝え、17世紀後期から明治末年頃まで酒造業を営んだ。江戸時代後期には大庄屋を務めていた。12代目の瀬戸健三は、小池佐平らとともに大正9年(1920年)に南海紙業株式会社(現旭化成工業株式会社和歌山工場)を設立し社長に就任した。この12代健三によって建設されたのが、現在の住宅である。
広い敷地の東よりに主屋を建て、続いてその西側に座敷を建てる。主屋の背面側には街路に接し、東から旧女中部屋及び風呂、文庫蔵、穀蔵、西蔵を並べる。規模の大きな主屋を背景に大小のこれら付属屋が並んで建ち、良好な歴史的景観を形成している。
主屋は、木造、2階建、入母屋造、桟瓦葺で、東西9間、南北8間半の規模で、主体部の西に寝室部を角屋(つのや)状に突き出し、背面側にも居室部を突き出している。主屋は大正時代後期に建設されたもので、建設時の図面の一部が残されており、大阪市の葛野(かどの)建築事務所が設計したことが分かる。東側に入口を構え、通り土間を設け、背面側はダイドコロで、カマドや流しが据えられている。1階の最も上手には8畳のザシキを設ける。ザシキは床の間が設けられた書院座敷である。2階には土間に設けられた階段を上る。2階の南西隅には洋室が設けられており、寄木張りの床とした凝った造りになる。南側の窓からは日高川の流れを望むことができる部屋で、おそらくは接客の用途で用いられたと思われる。
座敷は、主屋の西側に建つ。建設年は不明であるが、主屋に続いて建てられたと伝える。座敷も主屋同様に図面が残されており、葛野建築事務所の設計である。建築後、南西に茶室部を昭和34年(1959年)から翌35年(1960年)にかけて増築し、今に至っている。元は隠居部屋として作られたというが、充実した接客空間を持ち、主屋と同様、上質な建築になる。木造、入母屋造、桟瓦葺、東西9間、南北5間半の規模で、東端に玄関を構える。最も上手の部屋は12畳半の座敷で床の間、床脇、付書院を設ける。柱や長押などには檜(ひのき)の目の詰んだ良材を用いている。また12畳半、10畳の境には重ね扇を透かし彫りにした欄間を設ける。
旧女中部屋及び風呂は、主屋とほぼ同時期の大正後期の建設と考えられ、西側を風呂とする。風呂はタイル貼で、五右衛門風呂の釜を据え、天井は上質な意匠になる。
文庫蔵、穀蔵、西蔵は、屋敷北側に並び立つ重厚な土蔵群で、漆喰塗の外壁に腰を板壁とし、屋根は本瓦葺で葺く。穀蔵はかつて小作米を収容した蔵で、棟札から天保13年(1842年)の建築年が知られ、屋敷内で最も古い建造物となるもので、主屋建設に合わせ屋敷内で曳家されたものである。
表門は、主屋の南東に取り付き、東側の路地に門扉を開く。一間の腕木門で、切妻造、桟瓦葺屋根である。向かって右に潜り戸を設ける。桟瓦は丸桟瓦を用い、欄間も凝った意匠になる。当家の表門として上質な造りである。
主屋、座敷は大阪の葛野建築事務所が設計したものになり、大正時代後期から昭和時代前期にかけて建設された。主屋は栂普請になり、良材を駆使したものである。外観からは分からないが、2階に洋室を備えた質の高い住宅である。通り土間の吹き抜け空間と、改造の少ない台所空間も見応えがある。
座敷は檜普請で、やはり良材が使われている。続き間の書院座敷は接客空間として洗練された意匠になる。扇をあしらった欄間にも特徴がある。このように主屋、座敷は洗練された和風意匠の近代住宅として質が高い。
また、住宅は北側の街路に接して、旧女中部屋及び風呂、文庫蔵、穀蔵、西蔵を並べ、良好な歴史的景観を形成しており、集落の歴史的景観の核をなす大規模な和風住宅として価値が高い。