根来寺多宝塔(大塔) ねごろじたほうとう(だいとう)
国宝
員数 | 1基 |
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地域 | 那賀地域 |
所在地 | 岩出市根来2286 |
時代 | 室町時代後期 |
指定年月日 | 明治32年4月5日指定/昭和27年11月22日国宝指定 |
指定等区分 | 国指定 |
文化財分類 | 有形文化財(建造物) |
所有者 | 根来寺 |
解説
覚鑁(かくばん)は備前国に生まれ、20歳のとき高野山に入り、鳥羽上皇の援助を得て、修行僧に学問を授ける伝法会(でんぽうえ)の復興など、真言宗の改革運動を推し進めた。しかし覚鑁の運動は高野山と対立し、保延6年(1140年)に根来に下山した。覚鑁の死後、弟子たちは高野山に帰るが対立が止まず、正応元年(1288年)に一門は根来へ移り、根来寺が誕生した。戦国時代になり、根来寺は単なる寺院としてではなく、一個の都市として発展していく。谷の中は平地も山あいも坊院(ぼういん)で埋め尽くされ、各坊院は様々な経済活動によって莫大な富を蓄積し、「根来衆(ねごろしゅう)」と呼ばれた僧兵集団を組織した。また、門前の坂本には町屋が軒を並べていた。その後、天正13年(1585年)の秀吉軍の兵火によって、根来一山はほとんど焼失し、兵火を免れて焼け残ったのは大塔、大師堂、大伝法堂などわずかな堂宇のみであった。
大塔は、総高36メートルの大規模な多宝塔である。一般の多宝塔と違い、下重が方五間あり、内部に柱を円形に配置して内陣(ないじん)・外陣(げじん)を区画する大塔形式を伝えるものである。解体修理の際に多くの墨書(ぼくしょ)が発見され、それによると明応5年(1496年)に心柱(しんばしら)を立て立柱式(りっちゅうしき)が行われ、その後工事が続けられ、長い年月をかけて天文16年(1547年)に完成している。
大塔形式を伝える現存唯一の多宝塔として、全国的に見ても極めて貴重な建物であり、国宝となっている。