定福寺境内(高野参詣道 黒河道) じょうふくじけいだい(こうやさんけいみち くろこみち)
員数 | 985㎡ |
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地域 | 伊都地域 |
所在地 | 橋本市賢堂285 |
指定年月日 | 平成24年7月20日指定 |
指定等区分 | 県指定 |
文化財分類 | 史跡 |
所有者 | 定福寺 |
解説
高野参詣道黒河道の西に接する真言宗の寺院で、紫雲山定福寺と号する。現在の本堂(現代)は南面して建ち黒河道に面していないが、かつての本堂は東面し、黒河道に面していたとの伝承がある。
この場所は、紀の川南岸の低位段丘面南端に当たり、黒河道の起点は紀の川渡三軒茶屋(わたりさんげんぢゃや)に建つ大常夜燈籠(だいじょうやとうろう)であるが、当寺から北側は紀の川に向けて傾斜が急になることや当寺がこの道の最初の宗教施設であることから、実質的な黒河道の玄関口と考えられる。
境内地には、北側に本堂、その西側に庫裏(国登録有形文化財)、南東に般若蔵(はんにゃぐら)があるほか、創建時に安置されたと考えられる平安時代の仏像をはじめ、多くの石造物、建造物があり、民俗行事等が伝わっている。
本尊である阿弥陀如来坐像(県指定文化財)は、桧材による一木造の仏像で、南都系の影響を色濃く受けた優品である。この仏像は平安時代(10~11世紀)の作とされている。和歌山県内の仏像には地方色が見られるものが多い中で、高野山とその周辺にはこうした都作(みやこづくり)的な洗練された作品が知られている。
当寺の参道脇には、石造の九重塔(橋本市指定文化財)が建っている。基壇部に「弘安第八暦乙酉」(1285年)の刻銘が認められ、高野山町石卒塔婆(そとば)の造立とも同時期の鎌倉時代中頃のものと考えられる。軸部には、東方に薬師如来、西方に阿弥陀如来、南方に釈迦如来、北方に弥勒菩薩が刻まれる。近畿地方でも珍しい石塔である。また、境内の一角には、九重塔と同時期と考えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)の残欠品が残されている。その他の石造物として、3基の室町時代中頃の五輪塔が残されている。これらは、いずれも15世紀のものである。
庫裏は東西に棟を持つ入母屋造である。庫裏の間取りは棟通りで南北に分けられ、南側を公的空間、北側を私的空間としている。南側奥の上座には、武家や大寺院等の格式を示す「押板床(おしいたゆか)」を配している。鬼瓦に宝暦11年(1761年)の銘があり、この頃に建造されたと考えられる。高野山の僧侶が里坊(さとぼう)として利用したと伝えられる。
民俗行事としては、堂座講(どうざこう)が今に伝えられており、江戸時代の念仏鉦(ねんぶつしょう)や太鼓が伝わっている。当寺に伝わる行事をはじめとして、高野山麓の村々の民俗行事は中世後半頃に遡るといわれている。
このように、定福寺に伝わる仏像、石造物、建造物、民俗行事等は、高野山との関係を示しており、境内が黒河道の玄関口にも当たることは、高野山参詣との関わりが深いことを窺わせ、和歌山県の歴史を考える上で重要な史跡である。