無量寺境内(熊野参詣道 大辺路) むりょうじけいだい(くまのさんけいみち おおへち)
員数 | 6301.41㎡ |
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地域 | 東牟婁地域 |
所在地 | 東牟婁郡串本町串本833 |
指定年月日 | 平成24年7月20日指定 |
指定等区分 | 県指定 |
文化財分類 | 史跡 |
所有者 | 無量寺 |
解説
熊野参詣道紀伊路(大辺路)からさらに海沿い寄りの「浜街道」と呼ばれる道に面する寺である。浜街道は、風光明媚な大辺路を象徴する絶景の道で、紀南地方の代表的な名勝橋杭岩や大島に至る道として、江戸時代中期に紀州藩により整備された。 無量寺は、虎関(こかん)禅師の開山による臨済宗東福寺派の古刹(こさつ)であり、錦江山(きんこうさん)無量寺と号し、紀州でも屈指の大寺として知られている。当初は、串本町の袋地区にあったが、宝永4年(1707年)10月の大地震による津波で流出したため、天明8年(1786年)に現在の場所に本堂が再建された。当時の本堂を改築した庫裏(くり)や、弘化4年(1847年)に地元の商人から寄進された本堂前面から観音堂裏に至る石垣が残る。
円山応挙と無量寺住職愚海和尚(ぐかいおしよう)は親交があり、『紀伊国名所図会』には、本堂再建成就に際し、愚海和尚が京の画人長沢芦雪を伴って来たという記述がある。芦雪は大辺路を辿って串本・無量寺に滞在し、「紙本墨画竜虎図(しほんぼくがりゅうこず)」をはじめ、数々の名画を遺している。また、芦雪は南紀滞在中に大辺路を辿って熊野三山へも参詣し、那智の滝図、橋杭岩図を遺している。他に、無量寺には江戸時代前期の狩野山雪、狩野探幽、江戸時代中期の絵師伊藤若冲、白隠彗鶴ら当代一流の絵師が名画を遺している。
『旧古座役場文書』によると、文化元年(1804年)8月8日に、当山派の三宝院門跡一行の熊野入峰の際に、熊野三山を巡って大辺路を辿り、無量寺に立ち寄って昼食休憩をしたという記述がある。文久3年(1863年)6月14日に、第14代将軍徳川家茂は上洛の帰り、軍艦奉行の勝海舟率いる蒸気軍艦にて大島港に着船し、無量寺に宿泊している。また、将軍家茂は文久4年・元治元年(1864年)の上洛途上の正月5日と帰府時の5月18日にも宿泊している。
文人墨客が多く訪れた場所であるとともに、三宝院門跡の熊野入峰の際の休憩の場であるなど、熊野参詣道紀伊路(大辺路)と深い関係を持ち、現在までその歴史を伝えていることから、和歌山県の歴史を考える上で重要な史跡である。