旧神田家別邸(稲村亭) きゅうかんだけべってい(とうそんてい)
解説
神田家は、「清右衛門」を屋号とし、山林などの地所を多く有したほか、鯨漁などの事業を経営した串本きっての商家である。嘉永5年(1852年)に発生した大飢饉の際は、村人たちに施米し、多くの人々を危機から救った。別邸の屋敷は無量寺門前に程近い市街地に構えられている。
別邸は明治7年(1874年)に建てられた。神田清右衛門家第12代の直堯(なおたか)によって自身の隠居所として建設されたものであるが、神田家の客人接待や祝儀事、仏事などにも使われ、本邸の機能を補完するものであった。
別邸の通称「稲村亭」の名は、明治4年(1871年)春に有田村(現在の串本町有田)の稲村海岸に流れ着いた廻り5メートル余り、長さ5メートルあまりもの巨木で造ったことに由来している。有田村の漁師房右ヱ門はこの巨木を拾得し神田家に寄進したが、その理由は大飢饉の際の神田家の施米で助けられたことに恩を感じていたことによる。
長らく神田家の住まいとして使われてきたが、平成28年(2016年)に土地と建物が串本町に寄贈され、平成30年(2018年)に町づくり会社である株式会社一樹の蔭が建物を取得し、令和元年(2019年)よりレストラン、ホテルとして活用されている。
別邸は、木造、平屋建、西面入母屋造、東面切妻造、瓦葺である。西側を上手、東側を下手とし、正面中央やや東側に入口を設け、土間となる。西側の最も上手は、続き間の書院座敷であり、柱や長押等の部材は飴色を呈した独特の杉材が使用されている。年輪の詰んだ材で、木取りされており、これらが稲村海岸に流れ着いた巨木を挽き割ったものである。続き間座敷は下の間が8畳、上の間が10畳で、長押を二重に打ち、竿縁天井を張る。天井は2室とも、柾目板を用いる。上の間の北側には床の間と違い棚、付書院を設ける。
屋根裏内に棟札が打たれており、上棟が明治7年(1874年)4月であったこと、大工が串本の濱口武兵衛、後見大工が上野(潮岬)の藤本清七であることが知られる。
別邸は、明治7年に神田家の隠居所として地元の大工によって建設されたもので、稲村海岸に流れ着いた巨木を使用する由来を持つ。軒を低く構えた重厚な外観である。上手座敷は流木を使用した良材を用いて造作された、質の高い端正な書院座敷である。串本きっての商家らしい質の高い建築で、建築年が明らかである点も貴重である。