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清廉たる学侶 明恵上人の足跡を訪ねるコース

有田地域

明恵(みょうえ・1173~1232)は、鎌倉時代前期の華厳宗の僧で、明恵上人や栂尾上人(とがのおしょうにん)とも呼ばれている。承安3年(1173年)、高倉上皇の武者所に勤めた平重国と紀伊国の有力者であった湯浅宗重四女の子として紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現在の和歌山県有田川町歓喜寺字中越)で生まれた。幼名は薬師丸。華厳宗中興の祖と称される。
治承4年(1180年)、9歳にして両親を失い、翌年、高雄山神護寺に文覚の弟子で叔父の上覚に師事し、後に文覚にも師事、華厳五教章などを学んだ。16歳で出家し、文治4年(1188年)、東大寺で受戒した。法諱は成弁(後に高弁に改名)。仁和寺で真言密教を実尊や興然に、東大寺の尊勝院で華厳宗・倶舎宗の教学を景雅や聖詮に、禅を栄西に学び、将来を期待された。しかし、21歳のときに国家的法会への参加要請を拒み、23歳で俗縁を絶って紀伊国有田郡白上に遁世し、この後約3年にわたって白上山で修行を重ねた。26歳のころ、高雄山の文覚の勧めで山城国栂尾に住み、華厳の教学を講じたが、その年の秋、10余名の弟子とともに再び白上に移った。この後、約8年間は筏立など紀伊国内を転々としながら、主に紀伊に滞在して修行と学問の生活を送った。建永元年(1206年)、後鳥羽上皇から京都の栂尾の地を下賜されて高山寺を開山し、華厳教学の研究などの学問や坐禅修行などの観行に励み、戒律を重んじて顕密諸宗の復興に尽力した。明恵は華厳の教えと密教との統一・融合を図り、この教えはのちに華厳密教と称された。