若一王子神社境内(熊野参詣道 紀伊路) にゃくいちおうじじんじゃけいだい(くまのさんけいみち きいじ)
員数 | 7,293㎡ |
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地域 | 日高地域 |
所在地 | 日高郡日高町比井 |
指定年月日 | 平成24年7月20日指定 |
指定等区分 | 県指定 |
文化財分類 | 史跡 |
所有者 | 若一王子神社 |
解説
かつての比井(ひい)の湊(みなと)から程近い場所にあり、海から200メートル程度奥まった丘陵裾部に海の方を向いて鎮座する。神社には、宝暦7年(1757年)5月、本殿修理の際に境内山林西南隅で発見された比井経塚の陶壺・経筒・紙本法華経(しほんほけきよう)八巻(重要文化財)が保管されている。経塚の発見の経緯については、『若一宮旧記』に詳しく記されている。経塚出土品「紙本法華経八巻」中第四巻を除き各巻には、保元3年(1156年)戌寅10月23日の奥書があり、かつ第一巻願文中に「奉埋于王子之上了」の記事がある。経塚跡には石碑が建つ。境内は昭和37年(1962年)に発掘調査が行われている。
平安時代中期から熊野信仰が盛んになるとともに、海路をとった参詣者が、この地に参拝を行った。この地に、ある時は幣を手向け、ある時は休憩所とし、あるいは遙拝所(ようはいじょ)としたのが当社の成立と考えられる。成立時期は、経塚出土品から見て保元以前の鎮座である。
江戸時代後期に編纂された紀伊国の地誌である『紀伊続風土記』には、「旧社なること知るべし、境内も広く大社なるをおもうに、この地旧熊野の神領なりしより勧請せしならんか」とある。熊野三山の神領であったと言う記録は今のところ見当たらないが、江戸時代中期から比井浦回船業が盛んになるとともに、徐々に社殿、境内も整備され、やがて現在の規模になったと考えられる。