「紀州みかん」最初の地 附 紀州柑橘剏祖之碑 きしゅうみかんさいしょのち つけたり きしゅうかんきつしょそのひ
地域 | 有田地域 |
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所在地 | 有田市糸我町中番 |
指定年月日 | 平成23年3月15日指定、平成24年8月24日種別錯誤訂正 |
指定等区分 | 県指定 |
文化財分類 | 史跡 |
所有者 | 個人、安生寺 |
解説
享保19年(1734年)の『紀州蜜柑傳来記』によれば、紀州みかんの伝来は、天正2年(1574年)に有田郡宮原組糸我庄中番村(現在の有田市糸我町中番)の伊藤孫右衛門が肥後国八代(現在の熊本県八代市)より苗木を持ち帰り、故郷の中番村山田に植えたと伝えられ、味・色・香りともに優れていたことから、繁殖させて周辺の果樹園に伝わったとされている。
紀州みかんの伝来に関しては、多くの文献があり、原生地や伝来時期については異なっているが、当地より周辺に広がった紀州みかんが、慶長元年(1596年)頃には、安田庄や田殿庄にも植えられるようになり、大坂や堺、伏見といった大都市に出荷され、高値で取引されたことが知られている。寛永11年(1634年)には、江戸へも出荷されるようになり、紀州藩の一大産物となった(『南紀徳川史』)。
近くにある有田公園には、大正4年(1915年)に周辺住民により伊藤孫右衛門の顕彰碑が建設されている。碑の撰文は倉田績(陽明学者・竃山神社宮司)、篆額(題字)は侯爵徳川頼倫(紀州徳川家第15代当主・貴族院議員)である。