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漂白の歌人 西行法師の足跡を訪ねるコース

伊都地域

西行(1118~1190)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士であり、後に僧侶となり、歌人として高名を馳せた。俗名は佐藤義清(さとうのりきよ)。秀郷流武家藤原氏の出自で、平安時代初めの藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の9世孫。佐藤氏は義清の曽祖父・公清の代より称し、家系は代々衛府に仕え、また紀伊国田仲荘(現在の和歌山県紀の川市。旧打田町)の預所に補任されて裕福な家柄であった。16歳ごろから徳大寺家に仕え、この縁で徳大寺実能や公能と親交を結ぶこととなる。保延元年(1135年)18歳で左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、同3年(1137年)に鳥羽院の北面武士としても奉仕していたことが記録に残る。和歌と故実に通じた人物として知られていたが、保延6年(1140年)23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。出家後は心のおもむくまま諸所に草庵を営み、しばしば諸国を巡り漂泊の旅に出て、多くの和歌を残した。
出家直後は鞍馬山などの京都北麓に隠棲し、天養元年(1144年)頃奥羽地方へ旅行し、久安4年(1149年)前後に高野山に入って庵を構えた。
治承元年(1177年)に伊勢国二見浦に移った。文治2年(1186年)に東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため2度目の奥州下りを行い、この途次に鎌倉で源頼朝に面会したことが『吾妻鏡』に記されている。伊勢国に数年住んだ後、河内国の弘川寺(大阪府河南町)に移り、建久元年(1190年)にこの地で亡くなった。かつて「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが人々の感動と共感を呼び、名声を博した。