旧加太砲台 きゅうかだほうだい
員数 | 2棟 |
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構成要素 | 弾廠(だんしょう)、厠(かわや) |
地域 | 海草地域 |
所在地 | 和歌山市加太1907-2 |
時代 | 明治後期 |
指定年月日 | 令和3年2月4日登録 |
指定等区分 | 国登録 |
文化財分類 | 有形文化財(建造物) |
所有者 | 和歌山市 |
解説
由良(ゆら)要塞は旧帝国陸軍が大阪湾の海上防衛のため、明治22年(1889年)に起工し、日露戦争開戦直前の明治37年(1904年)に一通りの施設が竣工した。紀淡海峡の中央にある友が島に5か所の砲台、和歌山側に加太砲台を含む5か所の砲台、淡路島には8か所の砲台が構えられ、本部は淡路島の由良に設けられた。
このうち加太砲台は砲座4門を備え、加太の市街地の南にある山上に建設された。砲座の南にやや離れて、弾廠、砲具庫、厠が並び建ち、さらに離れた山の中腹に火薬庫や営舎が建設された。しかし一度も実戦で使用されることは無く、終戦を迎えた。
砲台の跡地には和歌山市によって、昭和48年(1973年)に少年自然の家が建設された。その際、中央の第2・第3砲座は撤去されたが、弾廠、厠は、国有のまま和歌山市が借り上げ、市営住宅として使用されてきた。
弾廠、厠は、平成29年(2017年)に国から和歌山市が取得、平成29~30年の保存修理で当初の姿に復原された。平成30年(2020年)開設の和歌山市立青少年国際交流センターに付属する旧砲台の展示施設として活用されている。
弾廠は木造、平屋建、切妻造、瓦葺の建物である。建築年は不明であるが、明治後期の建設と考えられる。大きく三つの部屋よりなるが、各室の名称や用途は不明である。しかし弾廠という名称から、砲弾に火薬を詰める作業をした工廠(こうしょう)と考えられる。
中央の部屋は、貫(ぬき)や筋交(すじかい)を現しにした内装のない部屋で、ここが実際に弾を造る作業をした部屋と思われる。床は土間、窓は無双窓(むそうまど)とした極めて実用的な部屋である。一方、両脇の部屋は、床は土間、天井は小屋組現しであるが、内装の壁板を張り、ガラス窓を設けており、作業詰所や指揮所のような用途と考えられる。小屋組は洋式のトラス組で、小屋組材にまで丁寧に鉋(かんな)が掛けられている。
厠は木造、平屋建、切妻造、瓦葺の建物である。こちらも明治後期の建設と考えられる。高く煉瓦基礎を積み上げた外観で、東側に仕切りのない小便器を幅一杯に構え、西側に大便室を8室構える。
弾廠と厠は極めて実用的な軍用の建築でありながら、出入口の額縁構えや、板を柱に入れ込んだ下見板張りなど手の込んだ造作が見られ、明治後期の陸軍営繕の仕様や、施工の実態が良く分かる事例である。