和歌山県教育庁生涯学習局文化遺産課
〒640-8585和歌山市小松原通一丁目1番地
和歌山県内の豊かな文化財をめぐるコースを、エリアやキーワードで簡単に検索できます。国宝建造物、偉人ゆかりの地、名勝や庭園、古墳など、さまざまなテーマで、あなたの興味に合ったコースをお楽しみください。
有田地域
和歌山県の鎌倉・室町時代の建造物を訪ねる紀中紀南コース
鎌倉時代の文化の特徴は、伝統的な公家文化に加え、武家風の文化が成長し、宋や元文化の影響も受け、宗教的色彩の強い文化といえる。建築物においては、大陸伝来の新様式である大仏様(天竺様)と禅宗様(唐様)が寺院建築に取り入れられた。また、平安時代以来の伝統的な様式である和様や折衷様式の建造物も建てられた。また、この時代に下層が方形で上層が円形をなす二層の塔である多宝塔が創始されている。 室町時代の文化の特徴は、禅宗の影響を受けた武家文化が公家文化と融合した洗練された深みのあるものである。中央文化と地方文化が融合し、今日の伝統文化の多くが室町時代から受け継がれてきたものである。建築では書院造が今日の和風建築の基礎となり、鹿苑寺金閣や慈照寺銀閣などの著名な建造物が建てられた。
那賀地域
和歌山県の塔を訪ねるコース
和歌山県には、国宝や重要文化財に指定されている多宝塔が多数存在する。多宝塔は、下層が方形で上層が円形をなす二層の塔であり、鎌倉時代初期にわが国で創始された建築様式だといわれている。根来寺多宝塔は総高36mに及ぶ巨大なもので、現存するものでは国内最大である。安楽寺多宝小塔は、高さ約2mほどの工芸品的な小塔であるが、建造物としてまとまっており、厨子として作られたものと考えられている。 県内には、奈良や京都に多くみられる五重塔や三重塔は、少なく、江戸時代に建てられた道成寺の三重塔が県指定建造物に指定されている。
和歌山県の眺望地点を訪ねるコース
県内には、和泉・長峰・白馬・果無・大塔山脈などが連なり紀伊山地と呼ばれている。これらの山々の間をぬうように、紀ノ川・有田川・日高川・富田川・日置川・古座川・熊野川などが海にそそいでいる。海岸部は総延長623㎞にも及ぶリアス式の海岸で、良港に恵まれ、すぐれた自然美が数多くみられる。このような地形と地質構造に起因して、県内には多数の絶景の眺望地点がある。山岳部では、高野山を周遊する女人道の巡る磨尼山や弁天岳などの山頂からの眺望は素晴らしく、龍門山からも紀の川や和泉山脈の眺望が大きく開けている。また、海岸部では、湯浅町の明恵上人の修行地であった西白上遺跡からの湯浅湾の眺望は素晴らしく、潮岬からは、太平洋を見晴らす大パノラマが展開している。
日高地域
和歌山県の巨木・銘木を訪ねるコース
和歌山県は、本州最南端に位置し、気候が温暖多雨で森林資源に富み、古代より「木の国」とも呼ばれていた。平成3年に環境庁によって発行された『日本の巨樹・巨木林』近畿版では、県内には胸高幹周3.0m以上の樹木が618本存在する。楠や杉、銀杏などの巨木が多いが、紀中から紀南地方の神社境内には、ナギの巨木が多くみられる。明治時代の政府の神社合祀令によって、多くの神社の御神木であった巨木が伐採されたが、南方熊楠や柳田国男らの尽力によって神社合祀令は廃止され、野中の一方杉など多くの巨木が現在にいたるまで、その生命を伝えている。
和歌山県の巨岩・奇石を訪ねるコース
和歌山県の地質構造は、県内を東西に走る中央構造線、みかぶ構造線、本宮断層によって帯状にほぼ三等分にされた形で、北から古生界、中生界、新生界の地質となっている。紀の川の北側をほぼ東西に延びる中央構造線を境にして、その北側には上部白亜系の和泉層群が分布し、南側には、三波川帯が分布し、この地帯を構成する変成岩は、三波川結晶片岩類と御荷鉾緑色岩類に区分される。南部の那智勝浦町から三重県尾鷲にかけて、中期中新世の終わり頃に形成された火山活動による熊野酸性火成岩類が分布する。結晶質凝灰岩および石英斑岩・花崗斑岩からなる弧状岩脈が、古座川流域および枯木灘などの地域に形成されている。このような後期中新世の火成活動に伴って、熊野酸性岩類の周縁部には、妙法鉱山に代表されるような、銅を主とする金属鉱床が形成された。また、那智勝浦や湯の峰、川湯、白浜などの温泉は、これらの火成活動に関連していると考えられている。 また、橋杭岩のように南北に直線上に延びる石英斑岩の岩脈が見られる。
東牟婁地域
和歌山県の古墳を訪ねる2日コース
和歌山県の古墳数は1410基で、全国的にみて特に多いわけではない。その分布状況は、紀ノ川下流域と日高川下流域に多く分布し、南部に行くほど希薄となっている。とりわけ、岩橋千塚古墳群では、800基近い数の古墳がみられ、国内で最大規模の群集墳である。最古の前方後円墳は、日前宮近くの向陽高等学校校庭で発見された全長約28.6mの秋月1号墳で、陸橋部をもつなど弥生時代の墳丘墓の影響がみられる。秋月1号墳から時代が下って、周辺の花山などの岩橋山塊一帯に古墳が造営されるようになる。古墳の規模は、5m~90m程で、畿内中枢部のような巨大古墳は築かれていない。ただし、大阪府岬町に所在する全長200m前後の西陵古墳やミサンザイ古墳は紀氏一族の墓だと推定されている。
和歌山市
和歌山県の古墳を訪ねる1日コース
江戸中期の名僧 徳本上人の足跡を訪ねるコース
和歌山県内の石碑の中に、鳶文字という独特な丸みを帯びた字体で「南無阿弥陀仏」という六字が書かれた名号碑がいくつか見られる。それらは徳本上人(とくほんしょうにん・1758~1818)の顕彰碑である。 徳本は、江戸時代後期の浄土宗の僧で、俗姓は田伏氏という。紀伊国日高郡志賀村久志の出身で、徳本上人、徳本行者とも呼ばれた。27才で出家し、各地を巡り昼夜不断の念仏や苦行を積み、独学で念仏の奥義を悟ったと言われている。徳本の修行の姿が紀州藩主徳川重倫(とくがわしげのり)の耳に入り、引見されたことにより、広く世に知られることとなった。この頃以降、上人の名は天下に響きわたり、文化9年(1812)和歌山市梶取の総持寺で十七日の別行を勤めた際には、数万人の人々が押し寄せ、阿波や播磨から参じた人々の船が二百隻に及んだと言われている。その後、箕面の勝雄寺に移り、江戸や紀州に往来している。文化11年(1814)に江戸増上寺典界の招きで小石川伝通院に移り、その後、文政元年(1818)に小石川一行院で没するまで、関東地方から信州、北陸、近畿、四国など広範囲に活動している。徳本は、庶民から熱烈な帰依を受け、人々は上人自筆の名号を乞い受けて、護符とし、名号碑を建てて念仏講の信仰目標とした。六字名号碑の数は、全国で1000基近いものといわれている。
武家の棟梁 平氏一族の史跡を訪ねるコース
平清盛を中心とする平家一族は、近畿地方を中心に伊勢から瀬戸内海、九州まで多くの足跡を残している。平氏一族は、経済的基盤と軍事的基盤を整えて勢力を伸ばし、後白河法皇と近臣、公卿が企てた鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀が発覚した治承元年(1177年)、清盛は即座に公卿や後白河法皇の近臣を処罰し、その2年後には、法皇を捕らえて幽閉している。さらに都を福原へと遷都させている。このような歴史的事象から平氏政権をわが国初の武家政権とみる歴史家が増えている。 平氏一族と紀伊国との関わりは、伝承も含めて幾つか指摘されている。平氏の棟梁であった平忠盛やその子の清盛も院の近習として熊野参詣に同行している。有田市の糸我峠での出来事が文献記録に残されている。『平家物語』の巻第6「祇園女御」には、糸我峠における伝説が記されている。平忠盛は白河院が寵愛していた祇園女御を賜っていたが、その女御は白河院の子を宿していたので、白河院は「生まれる子が女子であれば我が子にし、男子であれば忠盛の子にして武士にせよ」と仰せられた。まもなく男子が産まれ、忠盛はそのことを奏上しようと思っていたが、適当な機会がなかった。白河院が熊野御幸の途中、糸我峠に輿を据えさせてしばらく御休息された。その時、忠盛は藪にぬかご(山芋)がいくつもあったのを見つけてそれを採り、白河院に「いもが子ははふほどにこそなりにけれ」と申し上げた。すると院は直ちに気づき、「ただもり取りてやしなひにせよ」と後の句を付けた。忠盛は山芋にかけて女御が男子を産んだことを報告し、院もすぐに察知して連歌にてこれを詠まれた。この時から忠盛は自分の子として養うようになり、その男子が後の平清盛であるという。
海草地域
悲劇の皇子 有間皇子の史跡を訪ねるコース
有間皇子(ありまのみこ・640~658)は、孝徳天皇の皇子であり、654年に天皇が崩御されてからは、有力な皇位継承者とみられていた。ただ、当時は、大化の改新の出来事をきっかけとして中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が政治の実権を握っており、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)や蘇我石川麻呂などが謀反の疑いをかけられて討伐されていた。有間皇子も中大兄皇子による粛清を恐れて心の病を装い、治療のために、657年9月に紀伊の牟婁の湯(現在の白浜町湯崎温泉)を訪れている。帰京後に有間皇子は、斉明天皇に病気が治癒したと報告し、牟婁の湯に行幸することを薦めた。翌658年10月に斎明天皇は、中大兄皇子たちと牟婁の湯を訪れた。天皇達が留守であった飛鳥京では、蘇我赤兄(そがのあかえ)が有間皇子に近づき、斉明天皇と中大兄皇子の討伐をそそのかした。有間皇子は謀略にのせられて討伐の意を示したが、すぐに中大兄皇子に知られ、捕らえられて天皇と中大兄皇子の居た牟婁の湯に11月9日に護送されてきた。中大兄皇子らの詮議を受け、11月11日に海南市の藤白坂周辺で処刑されたという。海南市の藤白神社境内には、有間皇子神社が祀られ、近辺には、墓石と歌碑が置かれている。 御坊市の岩内3号墳では、豪華な副葬品である銀装太刀や漆塗棺、7世紀代の土器などが横穴式石室から出土しており、有間皇子の墓ではないかという説がある。
日高地域1日コース
日高地域には、広川町から日高町、御坊市、印南町、みなべ町へと続く熊野参詣道と王子社が存在し、鹿ヶ瀬峠(ししがせとうげ)には、県内で最長の500mにも及ぶ石畳が存在する。また、日高川町には安珍と清姫の伝説で有名な道成寺があり、日高町には、江戸時代後期の高僧であった徳本上人(とくほんしょうにん)が生まれた誕生院が存在し、記念碑が建立されている。海岸部には県の名勝・天然記念物の千里の浜があり、万葉集以来数々の歌に詠まれ、アカウミガメの産卵地としても有名である。