悲劇の皇子 有間皇子の史跡を訪ねるコース
海草地域
有間皇子(ありまのみこ・640~658)は、孝徳天皇の皇子であり、654年に天皇が崩御されてからは、有力な皇位継承者とみられていた。ただ、当時は、大化の改新の出来事をきっかけとして中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が政治の実権を握っており、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)や蘇我石川麻呂などが謀反の疑いをかけられて討伐されていた。有間皇子も中大兄皇子による粛清を恐れて心の病を装い、治療のために、657年9月に紀伊の牟婁の湯(現在の白浜町湯崎温泉)を訪れている。帰京後に有間皇子は、斉明天皇に病気が治癒したと報告し、牟婁の湯に行幸することを薦めた。翌658年10月に斎明天皇は、中大兄皇子たちと牟婁の湯を訪れた。天皇達が留守であった飛鳥京では、蘇我赤兄(そがのあかえ)が有間皇子に近づき、斉明天皇と中大兄皇子の討伐をそそのかした。有間皇子は謀略にのせられて討伐の意を示したが、すぐに中大兄皇子に知られ、捕らえられて天皇と中大兄皇子の居た牟婁の湯に11月9日に護送されてきた。中大兄皇子らの詮議を受け、11月11日に海南市の藤白坂周辺で処刑されたという。海南市の藤白神社境内には、有間皇子神社が祀られ、近辺には、墓石と歌碑が置かれている。
御坊市の岩内3号墳では、豪華な副葬品である銀装太刀や漆塗棺、7世紀代の土器などが横穴式石室から出土しており、有間皇子の墓ではないかという説がある。