和歌山県教育庁生涯学習局文化遺産課
〒640-8585和歌山市小松原通一丁目1番地
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那賀地域
戦国末期の覇者 豊臣秀吉の足跡を訪ねるコース
戦国時代末期に全国統一を果たした豊臣(羽柴)秀吉(1537~1598)も紀伊国にいくつかの足跡を残している。天正13年(1585年)大軍を率いて紀州討伐に遠征している。和泉国の根来方の城砦を次々と陥落させ、根来寺と粉河寺を焼き払っている。また、JR和歌山駅の東側に位置していた太田城をわずか数日間で堤防を築いて取り囲み、水攻めにしたことは有名である。現在、その堤跡の一部が和歌山市出水に残されており、史実であったことを物語っている。 秀吉は、紀州支配の中心地として和歌山市の吹上峰に城を築くこととし、自ら縄張りをして本丸と二の丸を築造させたと伝えられる。和歌山城の基礎は、秀吉によって築かれている。
有田地域
清廉たる学侶 明恵上人の足跡を訪ねるコース
明恵(みょうえ・1173~1232)は、鎌倉時代前期の華厳宗の僧で、明恵上人や栂尾上人(とがのおしょうにん)とも呼ばれている。承安3年(1173年)、高倉上皇の武者所に勤めた平重国と紀伊国の有力者であった湯浅宗重四女の子として紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現在の和歌山県有田川町歓喜寺字中越)で生まれた。幼名は薬師丸。華厳宗中興の祖と称される。 治承4年(1180年)、9歳にして両親を失い、翌年、高雄山神護寺に文覚の弟子で叔父の上覚に師事し、後に文覚にも師事、華厳五教章などを学んだ。16歳で出家し、文治4年(1188年)、東大寺で受戒した。法諱は成弁(後に高弁に改名)。仁和寺で真言密教を実尊や興然に、東大寺の尊勝院で華厳宗・倶舎宗の教学を景雅や聖詮に、禅を栄西に学び、将来を期待された。しかし、21歳のときに国家的法会への参加要請を拒み、23歳で俗縁を絶って紀伊国有田郡白上に遁世し、この後約3年にわたって白上山で修行を重ねた。26歳のころ、高雄山の文覚の勧めで山城国栂尾に住み、華厳の教学を講じたが、その年の秋、10余名の弟子とともに再び白上に移った。この後、約8年間は筏立など紀伊国内を転々としながら、主に紀伊に滞在して修行と学問の生活を送った。建永元年(1206年)、後鳥羽上皇から京都の栂尾の地を下賜されて高山寺を開山し、華厳教学の研究などの学問や坐禅修行などの観行に励み、戒律を重んじて顕密諸宗の復興に尽力した。明恵は華厳の教えと密教との統一・融合を図り、この教えはのちに華厳密教と称された。
伊都地域
漂白の歌人 西行法師の足跡を訪ねるコース
西行(1118~1190)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士であり、後に僧侶となり、歌人として高名を馳せた。俗名は佐藤義清(さとうのりきよ)。秀郷流武家藤原氏の出自で、平安時代初めの藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の9世孫。佐藤氏は義清の曽祖父・公清の代より称し、家系は代々衛府に仕え、また紀伊国田仲荘(現在の和歌山県紀の川市。旧打田町)の預所に補任されて裕福な家柄であった。16歳ごろから徳大寺家に仕え、この縁で徳大寺実能や公能と親交を結ぶこととなる。保延元年(1135年)18歳で左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、同3年(1137年)に鳥羽院の北面武士としても奉仕していたことが記録に残る。和歌と故実に通じた人物として知られていたが、保延6年(1140年)23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。出家後は心のおもむくまま諸所に草庵を営み、しばしば諸国を巡り漂泊の旅に出て、多くの和歌を残した。 出家直後は鞍馬山などの京都北麓に隠棲し、天養元年(1144年)頃奥羽地方へ旅行し、久安4年(1149年)前後に高野山に入って庵を構えた。 治承元年(1177年)に伊勢国二見浦に移った。文治2年(1186年)に東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため2度目の奥州下りを行い、この途次に鎌倉で源頼朝に面会したことが『吾妻鏡』に記されている。伊勢国に数年住んだ後、河内国の弘川寺(大阪府河南町)に移り、建久元年(1190年)にこの地で亡くなった。かつて「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが人々の感動と共感を呼び、名声を博した。
鎌倉幕府の創始者 源氏と北条氏の足跡を訪ねるコース
平氏一族を討伐し、本格的な武家政権を開いた源頼朝であるが、紀伊国にも源氏や北条氏と縁のある文化財が残されている。熊野速玉大社の神倉神社では、御神体であるゴトビキ岩まで麓から538段の急峻な石敷き階段が造られているが、寄進したのは源頼朝との伝承があり、鎌倉造りと呼ばれている。 高野山の金剛三昧院(こんごうさんまいいん)は鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室であった北条政子が頼朝の菩提を弔うために建暦元年(1211年)に創建した。落慶供養は高名な栄西禅師が勤めている。北条氏や足利氏の武将も菩提寺とし、後醍醐天皇をはじめ多くの皇族や武将が参拝している。多宝塔は貞応2年(1223年)に頼朝と実朝の供養のために建立され、内部には重要文化財の五智如来座像が安置されている。滋賀県大津市石山寺の多宝塔に次いで日本で2番目に古いもので国宝に指定されている。 高野山町石道は金剛峯寺への参詣に最もよく使われた主要道で、一町(約109m)ごとに金剛峯寺の中心である壇上伽藍(だんじょうがらん)からの距離を刻んだ町石(石製道標)が建てられている。距離は、山麓の慈尊院から壇上伽藍までが約20km、壇上伽藍から奥の院の弘法大師御廟までが約4km、合計約24kmである。一里(約4km)ごとに同様の里石も5基建てられている。町石は花崗岩の四角柱の先端に五輪塔形を彫出した形で、全高約3.5m、重量は約750kgである。兵庫県産の御影石であり、この地までの移動の労力は大変なものである。この石材の基礎部を地中へ埋め込み、地上部分の高さは2m前後である。側面には、壇上伽藍からの距離(町数)のほか、密教諸尊の梵字の名前、建立の年月日及び目的などが彫り込まれている。もともとは木製であったといわれ、鎌倉時代に高野山の僧・覚斅(かくきょう)が石造による再興を願い、皇室や鎌倉幕府の要人、庶民の寄進を募り、文永2年(1265年)から弘安8年(1285年)にかけて20年の歳月をかけて建立された。町石と里石の合計221基のうち、鎌倉時代のものが約8割残り、一町ごとに礼拝を重ねながら山上を目指した参詣の様子を現在に伝えている。一部の町石の基礎部には護国教典の『金光明最勝王経』を川原石に墨書した経石が埋められていることが発掘調査で明らかにされている。この時期、日本は、当時中国大陸を支配していた元から二度の襲来(元寇)を受け(文永の役1274年・弘安の役1281年)、存亡の危機にさらされていた。町石の基礎部に護国教典を書写した経石を埋納して国の守護を祈願した可能性がある。町石の寄進者に北条時宗などの幕府関係者が多いこともこれを裏付けている。町石建立にはそのような秘められた歴史的背景がある。
武家の棟梁 平氏一族の史跡を訪ねるコース
平清盛を中心とする平家一族は、近畿地方を中心に伊勢から瀬戸内海、九州まで多くの足跡を残している。平氏一族は、経済的基盤と軍事的基盤を整えて勢力を伸ばし、後白河法皇と近臣、公卿が企てた鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀が発覚した治承元年(1177年)、清盛は即座に公卿や後白河法皇の近臣を処罰し、その2年後には、法皇を捕らえて幽閉している。さらに都を福原へと遷都させている。このような歴史的事象から平氏政権をわが国初の武家政権とみる歴史家が増えている。 平氏一族と紀伊国との関わりは、伝承も含めて幾つか指摘されている。平氏の棟梁であった平忠盛やその子の清盛も院の近習として熊野参詣に同行している。有田市の糸我峠での出来事が文献記録に残されている。『平家物語』の巻第6「祇園女御」には、糸我峠における伝説が記されている。平忠盛は白河院が寵愛していた祇園女御を賜っていたが、その女御は白河院の子を宿していたので、白河院は「生まれる子が女子であれば我が子にし、男子であれば忠盛の子にして武士にせよ」と仰せられた。まもなく男子が産まれ、忠盛はそのことを奏上しようと思っていたが、適当な機会がなかった。白河院が熊野御幸の途中、糸我峠に輿を据えさせてしばらく御休息された。その時、忠盛は藪にぬかご(山芋)がいくつもあったのを見つけてそれを採り、白河院に「いもが子ははふほどにこそなりにけれ」と申し上げた。すると院は直ちに気づき、「ただもり取りてやしなひにせよ」と後の句を付けた。忠盛は山芋にかけて女御が男子を産んだことを報告し、院もすぐに察知して連歌にてこれを詠まれた。この時から忠盛は自分の子として養うようになり、その男子が後の平清盛であるという。
西牟婁地域
熊野を参詣した上皇たちの足跡を訪ねるコース
平安時代後期の応徳3年(1086年)から始まる白河上皇の治世から平家滅亡の文治元年(1185年)の頃までを院政時代とも呼ぶ。院政は、在位する天皇の直系尊属である太上天皇(上皇)が、天皇に代わって治天の君として国の政務を行う政治形態である。白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇から鎌倉時代初期の後鳥羽上皇まで続いたが、各院や貴族は熱心に熊野参詣を行った。参詣した回数は、白河上皇9回・鳥羽上皇21回・後白河上皇34回・後鳥羽上皇28回に及ぶ。 参詣ルートは、京都の城南宮を出発して淀川を下り、久保津で上陸して、陸路を南下し、雄ノ山峠から紀伊に入り海岸線を南下し、田辺から内陸部の中辺路ルートで本宮へと向かうものである。さらに本宮からは陸路と熊野川で新宮、那智へと至る路程である。参詣道の沿道には、熊野三山の御子神などを祀った王子社が造営された。熊野九十九王子と呼ばれており、現在も各所にその名残りをとどめており、藤原為房の日記『為房卿記』、藤原宗忠の日記『中右記』などに詳細が記録されている。
真言密教の開祖 空海ゆかりの史跡を訪ねる2日コース
空海(774~835)は讃岐国多度郡弘田郷(現在の香川県善通寺市)の佐伯氏の一族に生まれ、幼い頃から勉学を志し、18歳で都の大学に入学するが、既成の学問では飽き足らずに出家し、厳しい山岳修行を重ねた。804年、23歳の時に遣唐使船で唐に渡り、806年に帰国した。唐では長安の青龍寺の密教の第七祖である恵果阿闍梨(けいかあじゃり)から真言密教の奥義を授かり、日本に伝えた。816年に嵯峨天皇から修行の道場として高野山を与えられ、金剛峯寺を開基した。平安時代初期の仏教界で活躍し、讃岐国満濃池(まんのういけ)の改修などの土木事業や教育施設である綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)の開設など教育事業にも多数の業績を残した。835年高野山で62歳の生涯を閉じた後も人々を救い続けるとされ、921年には「弘法大師」の称号が朝廷から贈られている。四国や近畿地方を中心として各地に弘法大師の伝説や伝承が残されており、現在の我々の生活とも密接に結びついている。 空海の伝説は、あまり知られていないが、紀南地方にも残されている。串本町の橋杭岩は、空海と天の邪鬼が力比べした跡だといわれている。串本町古座の重畳山神王寺(かさねやまじんのうじ)と那智勝浦町阿弥陀寺は、空海の開基によるものだといわれている。両寺院とも山腹の高台にあり、眼下には熊野灘の絶景が広がっている。
真言密教の開祖 空海ゆかりの史跡を訪ねる1日コース
空海(774~835)は讃岐国多度郡弘田郷(現在の香川県善通寺市)の佐伯氏の一族に生まれ、幼い頃から勉学を志し、18歳で京の都の大学に入学するが、既成の学問では飽き足らずに出家し、厳しい山岳修行を重ねた。804年、23歳の時に遣唐使船で唐に渡り、806年に帰国した。唐では長安の青龍寺の密教の第七祖である恵果阿闍梨(けいかあじゃり)から真言密教の奥義を授かり、日本に伝えた。816年に嵯峨天皇から修行の道場として高野山を与えられ、金剛峯寺を開基した。平安時代初期の仏教界で活躍し、讃岐国満濃池(まんのういけ)の改修などの土木事業や教育施設である綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)の開設など教育事業にも多数の業績を残した。835年高野山で62歳の生涯を閉じた後も人々を救い続けるとされ、921年には「弘法大師」の称号が朝廷から贈られている。四国や近畿地方を中心として各地に弘法大師の伝説や伝承が残されており、現在の我々の生活とも密接に結びついている。 空海の母親は、高野山が女人禁制であったため、麓の慈尊院に住んでいたとされる。そのために空海は高野山町石道を頻繁に上り下りして母に会いに行っていたといわれている。
和歌山市
天平文化の創始者 聖武天皇の史跡を訪ねるコース
聖武天皇(701~756)は、文武天皇の第一皇子で、母は藤原不比等の娘・宮子である。律令国家完成期の華やかな貴族文化である天平文化を築いた中心人物である。また、国家仏教の隆盛に尽力し、諸国に国分寺・国分尼寺を建立し、東大寺に大仏を造立したことはあまりにも有名である。 神亀元年(724年)、23歳で即位した聖武天皇は、10月8日に紀伊国に行幸し和歌の浦に到着し、その後14日間滞在した。その時に、次のような詔(みことのり)を出している。 「山に登り海を望むに、此間最も好し。遠行を労せずして、遊覧するに足れり。故に弱浜(わかはま)の名を改めて、明光浦(あかのうら)とす。守戸を置きて荒穢せしむことなかるべし。春秋二時に、官人を差し遣して、玉津島の神、明光浦の霊を奠祭せしめよ」(『続日本紀』) この行幸に同行した万葉歌人山部赤人が詠んだのは、まさしく干潟が大きく広がる和歌の浦の景観であった。 「若の浦に 潮満ちくれば 潟を無み 芦辺をさして 鶴鳴き渡る」(万葉集巻6・919番) このように聖武天皇と和歌の浦とは深い縁があり、その後も天平神護元年(765年)10月に称徳天皇、延暦23年(804年)10月に桓武天皇が和歌の浦に行幸している。一説によると天皇家が祀る伊勢神宮と、平城京を中心として対称の位置関係にある和歌の浦が行幸の地として選ばれたともいわれている。
海草地域
悲劇の皇子 有間皇子の史跡を訪ねるコース
有間皇子(ありまのみこ・640~658)は、孝徳天皇の皇子であり、654年に天皇が崩御されてからは、有力な皇位継承者とみられていた。ただ、当時は、大化の改新の出来事をきっかけとして中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が政治の実権を握っており、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)や蘇我石川麻呂などが謀反の疑いをかけられて討伐されていた。有間皇子も中大兄皇子による粛清を恐れて心の病を装い、治療のために、657年9月に紀伊の牟婁の湯(現在の白浜町湯崎温泉)を訪れている。帰京後に有間皇子は、斉明天皇に病気が治癒したと報告し、牟婁の湯に行幸することを薦めた。翌658年10月に斎明天皇は、中大兄皇子たちと牟婁の湯を訪れた。天皇達が留守であった飛鳥京では、蘇我赤兄(そがのあかえ)が有間皇子に近づき、斉明天皇と中大兄皇子の討伐をそそのかした。有間皇子は謀略にのせられて討伐の意を示したが、すぐに中大兄皇子に知られ、捕らえられて天皇と中大兄皇子の居た牟婁の湯に11月9日に護送されてきた。中大兄皇子らの詮議を受け、11月11日に海南市の藤白坂周辺で処刑されたという。海南市の藤白神社境内には、有間皇子神社が祀られ、近辺には、墓石と歌碑が置かれている。 御坊市の岩内3号墳では、豪華な副葬品である銀装太刀や漆塗棺、7世紀代の土器などが横穴式石室から出土しており、有間皇子の墓ではないかという説がある。
海を渡った古代騎馬豪族 紀氏一族の史跡を訪ねるコース
紀の川の河口地帯には、古墳時代に紀氏と呼ばれる集団が居住していた。日本書記には紀氏一族がたびたび朝鮮半島に出征したことが記録されている。日前・国懸神宮(日前宮)を奉祀し、宮井用水を掘削して周辺を開墾し、岩橋山塊一帯に多くの古墳を築いた集団だと考えられている。大谷古墳からは、武器や装飾品など多数の副葬品とともに、日本では2例しかない朝鮮半島製の馬冑と馬甲が出土している。このことから大谷古墳の被葬者像として、紀氏一族の有力者で、半島に出兵し、武装して騎馬に乗った勇壮な武人の姿が浮かび上がってくる。古代より紀伊国は、木の国とも呼ばれて楠や杉などが多く産出し、紀氏一族は造船技術と航海技術に長け、大和朝廷の水軍の主力部隊だったと推定されている。昭和57年(1982年)に、和歌山市鳴滝で発見された7棟からなる大倉庫群は、朝鮮半島出兵時の物資の集積機能を担っていたとも推定されている。
東牟婁地域
東牟婁地域2日コース
東牟婁地域2日コースには、熊野三山の熊野速玉大社と熊野那智大社がある。また、古座川の一枚岩や高池の虫喰岩、橋杭岩など奇岩や巨岩などの地質構造に関わる天然記念物や那智大滝や瀞八丁、勝浦海岸(紀の松島)、海金剛などの自然的名勝が多数存在する。串本町大島には、明治22年(1890年)に遭難したトルコ軍艦エルトゥールル号に関連した史跡がある。