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濱口梧陵碑 はまぐちごりょうひ

地域 有田地域
所在地 有田郡広川町上中野206
時代 明治時代
指定年月日 平成27年1月15日指定
指定等区分 県指定
文化財分類 史跡
所有者 廣八幡宮

解説

広川町上中野の廣八幡宮境内参道入口部東隣に建立されている。一辺約4.3メートルの基壇の上に蛇紋岩の巨石を数石組み合わせ、その上に高さ3.15メートル、中央幅1.82メートル、厚さ0.2~0.3メートルの暗灰色を呈する縞状砂質粘板岩製の石碑である。石材は宮城県石巻市稲井町井内産出で、稲井石または仙台石と呼ばれるものである。
明治26年(1893年)4月に濱口梧陵の遺徳を称えるために子息の勤太が建立したもので、梧陵と生前に親交があった勝安芳(海舟)に依頼して撰文と題額の揮毫を受け、彼の生涯の事績や徳行を称えた711文字が刻まれている。本文の書は貴族院勅撰議員で明治三筆と呼ばれた書家巌谷修、刻字は東京市向島須崎町(現在の東京都墨田区向島)に工房を構えた碑刻師宮亀年である。
梧陵は、有田郡広村(現在の有田郡広川町)出身の実業家にして政治家である。文政3年(1820年)6月15日に紀州湯浅の醤油商人である濱口分家七右衛門の長男として生まれ、12歳で本家濱口儀兵衛の養子となり、下総国銚子村(現在の千葉県銚子市)に移り住んだ。その後、江戸に出て様々な学問を学び、勝や福沢諭吉などの知識人とも交流を深めた。30歳の時に広村に帰郷して家業を相続し醤油醸造業に専念した。
安政元年(1854年)11月5日の夜、安政南海地震が発生し、巨大な津波が広村に襲来した時、梧陵は村人を高台にある廣八幡宮に避難させて多くの命を救った。地震の後、梧陵は橋や道路を復旧させ、さらに4年間にわたり4,665両という莫大な私財を投じて全長654メートルにも及ぶ広村堤防(国史跡)を完成させた。
慶応4年(1868年)には紀州藩の勘定奉行となり、その後、和歌山県の大参事などを歴任した。明治13年(1880年)には初代和歌山県会議長となり、県の近代化や経済の発展に貢献した。明治18年(1885年)に念願であった世界旅行に出発したが、アメリカ合衆国のニューヨーク市において客死した。

所在地